最終更新日(Update)'15.12.01

白魚火 平成27年10月号 抜粋

 
(通巻第724号)
H27. 9月号へ
H27.10月号へ
H27.11月号へ
H28. 1月号へ


 10月号目次
    (アンダーライン文字列をクリックするとその項目にジャンプします。)
季節の一句    奥田  積 
「途  中」(作品) 白岩敏秀
曙集鳥雲集(一部掲載)坂本タカ女 ほか
白光集(村上尚子選)(巻頭句のみ掲載)
       
原  和子 、斎藤 文子  ほか    
白光秀句  村上 尚子
白魚火集(白岩敏秀選)(巻頭句のみ掲載)
     林  浩世、井上 科子 ほか
白魚火秀句 白岩 敏秀


季節の一句

(東広島) 奥 田  積   


雀来て山茶花散らす日なりけり  白岩 敏秀
(平成二十七年二月号 主宰詠より)

 細見綾子に〈山茶花は咲く花よりも散つてゐる〉の句があるが、山茶花は花季が長く散り易い花である。我が家の狭庭にも、垣根をはじめ数本の山茶花があるが、今年も花びらが零れているのを見て、あ、もう咲いていたんだと気づかされた。このところ、雀はまったくといってよいほど姿を見せない。たまに庭に来たりすると細君を呼んで、ガラス戸越しに見入る始末である。
 掲句は、そんな雀がやって来て、作者の優しい視線の中で、ひとしきり山茶花の花びらを零していったのであろう。暖かい冬の日の小さな出来事である。

忘れ得ぬ師の言葉あり返り花  小林 さっき
(平成二十七年二月号 白魚火集より)

 作者の詠まれた師がどなたであるかは解らないが、作者の思いとは離れても、こうした句を目にすると、二月に逝去された先師仁尾正文先生の温かいお姿が目に見え、先生のお優しい声が耳元に甦って聞こえてくるのである。句の普遍性を思う。九月には仁尾先生を追悼し、白岩新主宰を祝う東京大会が開催された。先師はきっと温かく見守ってくださっていたことであろう。「返り花」は小春日の花。自然の不思議な摂理に、人の世にはない、かなわぬ願望を思うのである。
 東京も、今は十二月を迎えて、冬桜が花をつける頃であろうか。

ひともとの上野の森の冬桜 加 茂 都紀女
(平成二十七年二月号 鳥雲集より)



曙 集
〔無鑑査同人 作品〕   

 穴 惑 ひ  坂本タカ女
見どころの失せ向日葵の種こぼす
あがらずに帰りてゆきぬ水引草
立入禁止札の梨畑穴惑ひ
ひとと逢ふことなく暮るる実むらさき
外にきこえくる笑ひごゑ立葵
燻りてばかりの芥銭葵
日のこぼれ柳且つ散る草分碑
ただごとでなき雨となる初穂かな

 地 蔵 盆  鈴木三都夫
手を離れ流灯となる別れかな
流灯に競ひあふこと無かりけり
割り込んで来てつくつくしひとくだり
松手入れ済みて位を戻しけり
半端な句ばかりが出来て秋暑し
摘果てふ難を逃れし青みかん
地蔵盆樒売る子もねび勝り
新発意の運ぶ曲彔地蔵盆

 柿 日 和  山根仙花
稲熟れて海へなだるる千枚田
鶏頭の影地に倒れ燃えてをり
住み古りし峡の一戸の柿日和
山坊に点る一燈虫時雨
水走るひびきに濡るる草紅葉
柚子一つもぐ庭下駄をつつかけて
雁の棹遠のき残る空真青
ヘルン居の時雨るる庭のるり柳

  秋     安食彰彦 
ど忘れをゆるせと言うて茸飯
わが指に止まらずかなし赤蜻蛉
夜叉の面秋灯消してとせがまるる
秋灯をひとりじめする師の句集
乱れ萩吾れは何かにせかされて
ゐのこづちつけて四拍手してをりし
少年にまた還りたし星月夜
新蕎麦を啜り佳境に入りけり

 蛇 の 衣   青木華都子
左右見てここどこかなと昼寝覚
茄子胡瓜漬けて一日始まりぬ
けふよりは秋風鈴となりしとか
窓越しに見てゐて夏の月赤し
かぶと虫行司もかぶと虫なりし
病室は青葉若葉のど真ん中
つんつんと左右に伸びし吾亦紅
木の枝に脱ぎ捨ててあり蛇の衣

 鵙 の 贄  村上尚子
新涼やいち日高き鳥の声
山越えの手足を濯ぐ秋の風
板渡すだけの桟橋鵙の贄
樅の木の男臭さや秋高し
木の実降る少女の赤きヘッドホン
遮断機をくぐり稲穂のまつ盛り
唐辛子まなこ大きくなつてきし
野ざらしの甕のとなりの木賊刈る

  子 規 庵  小浜史都女
子規庵の軒に糸瓜の十ばかり
萩こぼれ家賃五円の庵かな
秋深みゆく議事堂の銀杏の木
もみぢして千鳥ヶ淵のさくらの木
藪めうが藪らんも実に北の丸
萩は実に剣士のこゑの大手門
酔すこし東京の月まんまろし
まほろばの十月ざくら娘と仰ぐ 
 生きてゐる証  小林梨花
宝石のごとき光を朝の露
生きてゐる証の握手爽やかに
朝露に靴を濡らして通院す
稲熟れて出雲平野の黄金色
子に譲るものを揃へて菊日和
退院を祝うて集ふ秋灯下
穂芒の埋め尽くしたる遺跡かな
ときどきは風に消さるる虫の声

 いろは坂  鶴見一石子
修羅と生す街を遺して厄日過ぐ
苦瓜を刻み晩年生きるなり
硫黄噴く大涌谷を鳥渡る
流星の尾を引き飛べる九十九里
審査俟つ菊師菊鉢廻しをり
糸紡ぐ仕ぐさ語部秋扇
いろは坂いろは紅葉の屏風岩
大江戸の名月天を渉りゆく

 鵙 日 和  渡邉春枝
古井戸の蓋は竹組つくつくし
鵙日和僧房あとの柱数
地虫鳴く僧房ありし辺りより
これ以上行けぬ葛原水走る
秋草に踏み入りて種こぼしけり
行く秋の歴史公園てふ広場
みそ汁におとす卵や秋黴雨
パソコンを片手打ちして夜の長し

 小 望 月   渥美絹代
涼新た一斤の麺麭厚く切る
井戸小屋に魚籠吊る釘や秋の風
鴉より逃るる鳶や秋夕焼
大水の引きたるあとの野紺菊
籾殻より取り出す卵秋時雨
唐辛子吊るよき風の通る土間
神棚より稲穂一尺ほど垂るる
煤けゐる秋葉の護符や小望月

 下町の秋  今井星女
東京は第二の故郷いわし雲
穂芒や戸を明け放つ芭蕉庵
庵涼し入口にある網代笠
小鳥来て芭蕉の像に憩ひけり
相撲部屋多き深川秋日和
すれ違ふ若き力士の秋袷
横綱の記念館ある江戸の秋
月愛でつ「深川めし」をいただきぬ

 柿 の 下  金田野歩女
白萩や旧し新らし千社札
爽籟や警備の固き坂下門
貝独楽の上手な隠居秋日和
秋の田の田の字田の字の黄金色
小鳥来る兵児帯ゆるり西郷像
句帳繰り想ひ想ひの柿の下
青蜜柑谷中の寺に一茶句碑
満月の北海道へ着陸す

 全国大会(東京)  寺澤朝子
東京を足もて歩く秋日和
雨上る上野の森の水引草
いましばし虫の忍び音聞くことに
菊の香の満つる篤姫墓所
紀州尾州井伊掃 部とぞ秋の声
影絵めく夜景よ月の三宅坂
かく懐かしお国ことばや月あふぐ
集うては別れて深みゆく秋か


鳥雲集
一部のみ。 順次掲載  

 二 重 橋  野沢 建代
城垣に残る藩紋葛の花
新涼のはじめて渡る二重橋
欄干に秋冷いたるかつぱ橋
車寄せの深き廂や菊日和
千草の名教へ合ひして堀めぐり
一枚を羽織り月見にホテル出る

 秋 の 蚊  星田 一草
蝉の穴どこかに父の声がする
傘も柄も蹴つ飛ばされて毒茸
鶏頭の朱や真黒な種子を吐く
栗拾ふトリムコースの道外れ
本堂にどかと供ふる今年米
秋の蚊の寄る推敲の耳元に

 案 山 子  辻 すみよ
供連れし黄門様の案山子かな
着の儘で野良着乾かす案山子かな
映すものすべて揺らして水澄める
萩散つて風の乱れて来たりけり
小鳥来るビルの谷間の公園に
観覧車廻る色無き風の中

 被 爆 川  源  伸枝
初鵙や端山に朝の月残る
名月を映し流るる被爆川
不意に来るさみしさ雨の鶏頭花
夜学子に点す門灯うるみけり
大岩にからむ走り根小鳥来る
色変へぬ松や移築の多宝塔

 割 稽 古  横田 じゅんこ
かたかなは祖母に教はり宵の秋
鉛筆を持てども何もせぬ夜長
空いてゐる椅子の一つに秋日濃し
小鳥来る袱紗をたたむ割稽古
見せ合うてすぐひよんの笛吹きはじむ
蓮の実飛ぶ出合ひがしらといふ言葉

 白露の夜  浅野 数方
素秋かなしじま抜け来る水の音
秋日傘たたみ木陰の人となり
読み耽る名句の余韻白露の夜
木彫師の胡座崩さぬ秋扇
聞き澄ます旅の夜長の瀬音かな
手を繋ぐごとき鹿垣蝦夷日和

 秋うらら  池田 都瑠女
鷺いつも黙し歩むや稲の秋
失せ物の見つかる安堵秋うらら
稲滓火が流人の塚の近くまで
大根蒔くあとより土の乾きをり
この辺り平家村てふ真葛原
日の入に少し間があり草を引く

 曼珠沙華  大石 ひろ女
篠笛の音流れ来る十日月
虫時雨うしろの闇の深くして
咲き満ちてゐても淋しき曼珠沙華
秋灯下ひと日遅れの日記書く
幾重にも風をつないで大花野
過去ひとつ手繰り寄せたる烏瓜

 熔 岩 畳  奥木 温子
待つ人のなきわが家の虫時雨
花ごとに別れの口づけ秋の蝶
秋あかね憩ふ鳥獣供養塔
修羅のごと薄の靡く熔岩畳
熔岩原の小草いづれも実を持てり
活けらるる薄に紅のをさなき穂

 泣 角 力  柴山 要作
おんぶ螇蚸着地ぴたりと決めにけり
山寺の火を吐くやうな葉鶏頭
立錐の余地なき蓮吹かれ秋
本堂に献酒百本泣角力
泣角力一族郎党従へて
母の胸でまたも大泣き泣角力

 杉 木 立  西村 松子
直線といふ涼しさや杉木立
捨てがたき物に手艶の砧かな
父母逝きて長き歳月梨を剥く
山墓は一列並び蓼の花
秋思ふと十二階より湖を見て
稲滓火の風のかたちに走り出す

 夜  寒  森山 暢子
鰯雲年忌の沙汰のふたつあり
東京に行き損ねたり赤まんま
土笛は籾のかたちや雁渡し
あさあさと流るる川や秋夕焼
弦月や砂糖の焦ぐる匂ひして
煮魚に隠し包丁夜寒かな

 ななかまど  篠原 庄治
吊り下がる尻膨よかな瓢かな
ななかまど山の化身となり燃ゆる
火の山の噴煙秋をほしいまま
十六夜の月に傅く星一つ
石一つ祀る杣径草紅葉
行く秋や陽の逃げ易き山の畑



白光集
〔同人作品〕 巻頭句
村上尚子選

 原  和子

岩崎邸の白き列柱小鳥くる
秋ともしバカラのグラス高く揚げ
千鳥ヶ淵にしだるる桜紅葉かな
大番所同心番所萩咲けり
菊花紋の箸の弁当秋うらら


 斎藤 文子

閼伽桶に白露の水を汲みにけり
秋冷の漁火ひとつ岸に寄る
対岸は下北半島新松子
オルゴールまはりて秋を深めけり
弁当の林檎のうさぎ耳を立て



白光秀句
村上尚子


岩崎邸の白き列柱小鳥くる  原  和子

 明治二十九年、三菱の創設者、岩崎家の本邸として建てられた。広大な庭に面した本格的な洋風建築であり、特に一階と二階のベランダの列柱が印象的である。
 この日の夕方は演奏会が開かれるということで、青芝の上には白い椅子が並べられていた。練習の為時々管楽器の音が聞こえてきた。それに誘われるように、大きな木々の間から小鳥がわき立つように出て来た。
 近代建築の夜明けとなったこの邸宅の贅を尽した佇まいと、歴史を目のあたりにした作者である。心満たされた気持が歯切れよく表現されている。
  秋ともしバカラのグラス高く揚げ
 バカラグラスはフランス製の世界最高峰のクリスタルグラス。こんなグラスで乾杯すれば気分も最高であろう。
 一連の作品には、東京大会に臨んだ作者の高揚感が強く伝わってくる。

閼伽桶に白露の水を汲みにけり  斎藤 文子

 「閼伽桶」に水を汲んだことだけを言っているが、そのあとのことは言うまでもない。
 「白露」は陽暦で九月七日か八日頃にあたる。今年も残暑厳しい最中であった。
 最近の墓地は水道の蛇口が備えられている所が多くあり便利だが、いつ汲んでも季節感がない。掲句は作者が「白露」だと気付いたところが良かった。「白露」そのものの言葉も美しいが、声に出した時の語感がまた良い。このあとの作者の姿も清々しく見えてくる。
  秋冷の漁火ひとつ岸に寄る
 函館の景と思われる。同じ「漁火」でもその時の心境や、季節によって捉え方は変ってくる。掲句は「秋冷」としたところに深い感慨が伝わってくるのである。

稲刈つてシルバーウィーク過ごしけり  福嶋ふさ子

 「シルバーウィーク」の頃は地域によって稲刈のシーズンである。この休日に若い人達の手を借りて稲を刈った。何よりの行事である。健康的な家族の姿が垣間見えて嬉しい。

秋澄むや千鳥ヶ淵に櫂の音  鈴木百合子

 「千鳥ヶ淵」は桜の名所としても知られている。しかし紅葉前のお濠端はそれ程混んではいない。作者はそこに浮かぶ一艘のボートの「櫂の音」を聞き、しばし都心の静けさに身を置いたのだろう。

敬老日煮物上手な嫁と住み  山田ヨシコ

 一読してこの家庭の和やかな景が見えてくる。長年、きっと労り合いながら暮らしてこられたに違いない。十七文字には感謝の気持がいっぱいこもっている。

駅弁の蓋の飯粒秋暑し  宮﨑鳳仙花

 新幹線に乗ると、あっという間に目的地に着いてしまう。ゆっくり「駅弁」を味わうことも減ってしまった。この日作者は東京大会へ出向く途中だったのだろうか。素朴な景が素朴に表現されていて好感が持てる。

浮き玉の青赤黄色ごめ帰る  三浦 紗和

 繁殖のため渡って来た「ごめ」も役を終えると南へ帰って行く。しかし年老いたり傷ついたものは残される。その近くの水面には鮮やかな色の「浮き玉」だけが揺れている。やがて来る冬を思うと一層哀れを誘う。

縁側の湯飲み二つや紅葉晴  中組美喜枝

 上十二迄のフレーズが、作者の充実した日常生活をもの語っている。かつて日本家屋には縁側が付き物であった。降り注ぐ秋の日差しの中にお二人の会話が聞こえてきそうである。

釜の蓋鳴らし新米炊き上がる  本田 咲子

 毎日炊くご飯も、新米を初めて炊く時はやはり特別な気持になる。「釜の蓋鳴らし」に作者の喜びは充分言い尽されている。日本人で良かったと思う瞬間でもある。

鹿垣に囲まれ村の小さくなり  根本 敦子

 山地では年毎に鹿や猪の被害に悩まされている。その侵入を防ぐのが「鹿垣」。規模は地域によりさまざまだが、掲句の面白いのは「村の小さくなり」としたところ。決して面白がってなどいられないが、村中が一丸となって対策を練った末のことである。

マネキンの顔を貰ひし案山子かな  鈴木  誠

 今どきの「案山子」のスタイルは随分変ってきた。効果のほどは知らないが、通り掛かる人を楽しませてくれるのは確か。こんな「案山子」に見つめられたら千羽の雀も寄り付くことはないだろう。



    その他の感銘句
採り残す林檎に夕日惜しみなく
橋を吊る鎖の錆や薄もみぢ
よき話ばかり聞かされ衣被
金秋やはじめて渡る二重橋
水澄むや天守に人の影動く
赤楝蛇道鏡塚に出て惑ふ
月の出を待つ潮の香の中にゐて
半蔵門硬く閉ざして秋黴雨
精米機より新米のあふれだす
鵙日和はめ絵のピース一つ欠け
かりがねのしんがり不意にくづれけり
消しゴムの終りは丸しちちろ鳴く
読みさしの角を折る癖夜長の灯
家計簿のまとめ夜長の一仕事
髪乾くまでの夜ふかし栗を剥く
早川 俊久
溝西 澄恵
鈴木喜久栄
大澄 滋世
三上美知子
五十嵐藤重
大塚 澄江
天野 幸尖
小玉みづえ
高橋 茂子
池田 都貴
中嶋 清子
水出もとめ
平野 健子
大石伊佐子


白魚火集
〔同人・会員作品〕 巻頭句
白岩敏秀選

 浜 松  林  浩世

握手して別れの言葉爽やかに
まだ青き団栗踏んでしまひけり
潮の香のはつかに芭蕉庵は秋
禅寺の階に消え秋の蛇
先生の墓の辺に秋の草

 
 中津川  井上 科子

子規庵の乾ぶ引き戸や小鳥来る
子規在りし日日と変らず糸瓜棚
子規の身に合はす文机秋思ふと
雑草も抜くなと子規の庭の秋
名月やビルの谷間の瓦屋根



白魚火秀句
白岩敏秀


握手して別れの言葉爽やかに  林  浩世

 東京での全国大会も無事終わった。久し振りに会う人も初めて会う人もわけ隔てなく楽しい大会で、瞬く間の二日間であった。
 この句は大会終了後の情景であろう。別れとは、大抵つらいものだが、白魚火の全国大会は来年もある。来年もまた会えるという明るさが爽やかな言葉を生んだ。爽やかに会い、爽やかに別れる。そして、それぞれの地でまた句作にいそしむ。それが全国大会のよさである。
  先生の墓の辺に秋の草
 〈墓地買うて墓建て水のぬるみけり 正文〉。平成十一年の作である。俳人協会の自注シリーズに「永い流寓に終止を打ち、浜松に家を構え本籍を移した。念願の墓地を買い墓を建て夭折の次男を改葬した。これで遠州の土になる準備を終えた」とある。
 秋草に囲まれた先生の温顔が浮かんでくる句である。

子規の身に合はす文机秋思ふと  井上 科子

 正岡子規は明治三十五年に三十五歳で没した。没する以前の七年間は脊椎カリエスの悪化で『病牀六尺』の世界であった。〈蝸牛の頭もたげしにも似たり〉。病床の子規の自画像ともいえる句である。健康であればきっと机に向かっていたであろう子規。
 子規の身に合った文机でありながら、ついに座ることができなかった、病身の子規への思いが「秋思」となって表現されている。三十五歳は早すぎる死であった。
 この句は大会で私が特選一位に選んだ。

天高し棚田の上に棚田置き  田部井いつ子

 棚田百選の写真を見ると随分と高くまで積み上がっている棚田がある。そこまでいかなくても、山間には幾段も重なる棚田がある。稲の実った棚田を一段づつ追った眼はやがて秋天に至る。「棚田の上に棚田置き」の表現には、先人達が一段づつ積み上げていった、長い苦労の年月を見詰めている目がある。この句には棚田の風景描写に終わっていない奥の深さがある。

ねぎらひの言葉をかけて案山子抜く  関本都留子
目ン玉に力の残る捨案山子      保木本さなえ
 双方とも案山子が詠まれているが、置かれた境遇は案山子によって違うようだ。
 前句は「雨の日も風の日も、長い間ご苦労さん。やっと役目が終わりましたよ」と仕舞われている案山子。
 後句はまだやる気十分にもかかわらず、引き抜かれて畦に転がっている案山子。
 両句に一定の年限が来たら、第一線を退かなければならない人の世を重ねるのは深読みか…。

相づちを打つ夫のゐる夜なべかな  高橋 裕子

 秋の夜長を何かの夜なべをしているのだろう。話し相手のいない夜なべは淋しいものである。だが、この句には一人言のように洩らした言葉に短く答えてくれる夫がいる。手を休めてする程の会話ではない。相づちを打ってくれる夫が、傍にいることが嬉しく安心なのである。夫唱婦随―婦唱夫随に秋の夜は更けていく。

鰯雲いつか一人となるふたり  中嶋 清子

 大勢いた子ども達はそれぞれ独立して家庭を持っている。今は夫と二人だけの生活になった。それもいつかは一人となることははっきりしている。あれほど空を覆っていた鰯雲でさえだんだんと消えていっているではないか…。そうした道理を肯いつつ、今の二人の生活を大切にしてゆこうとする気持ち。句の表面に現れない真情が底に潜んでいる。

称讃を少し離れて聴く菊師  福田 麻子

 よく出来た菊人形に見物客が称讃の声を挙げている。それを少し離れた場所で腕組みをして菊師が聴いている図。客の前で人形作りの苦労などをぺらぺらと説明しない。主役はあくまでも菊人形である。称讃は全て菊人形が受け取るべきもの。菊師は黒子に徹する、それが菊師の心ばえというものだろう。

読めぬ文字飛ばし飛ばして夜長かな  中西 晃子

 ストーリーがいよいよ佳境に入ってきたのだろう。出合った文字に“むむ?”と唸りつつこれを飛ばして次に移る。「飛ばし飛ばして」の措辞で、辞書を引く手間も惜しむほど面白いストーリーであることが分かる。読書に夢中になる灯火親しむ夜長である。


    その他触れたかった秀句     

坑道の煉瓦の湿り地虫鳴く
稲束を負へば信濃の土匂ふ
月光の琴線の如締まりけり
石段を百段登り秋澄めり
残る蚊の残る力にさされけり
巻尺のカチンと戻る秋の風
台風の直角に向き変へにけり
地球儀の中の日本たうがらし
実石榴の取れぬ髙さに熟れてゐる
椅子一つ心ゆくまで十三夜
萩の道杖で書きたる案内図
少年を映して水の澄みにけり
木の橋を二つ渡りて初紅葉
ふれ歩く目立て屋の声今朝の秋
月の夜や煎じ薬の湯気上る

小川 鈴子
伊東美代子
福嶋ふさ子
磯野 陽子
富士 美鈴
新屋 絹代
飯塚富士子
内田 景子
錦織美代子
鈴木 滋子
神保紀和子
森山 啓子
石田 千穂
橋本喜久子
古島美穂子

禁無断転載